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花隈城跡 * 神戸高速鉄道「花隈」駅の東北、約30mにある花隈城(以前は花熊城と書いた)である。 城の石垣の一部は、くりぬかれて大きな駐車場になっている。 花隈公園と書かれた看板の横の坂道を登ると、広場に出る。 この高台の広場は、元町のビル街により、海に向かっての視界がさえぎられているが、かつては、神戸港が一望できる場所だったことがわかる。 広場には、花隈(熊)城であったという石碑と石垣のみが現存する。 この広場付近が本丸だったようで、東南の隅には櫓があったという。 「角川地名辞典」によれば、永禄11年(1568)摂津守護和田惟政の築城にはじまり、天正2年(1574)織田信長の命により荒木村重が、毛利氏と石山本願寺との海上連絡を断つために修築完成したといわれている。 城は、大体、東西350m、南北200mとみられ、海に向かって突出した台地にあった。 花熊城絵図(岡山藩主池田家に保存され、岡山大学で保管/神戸市史に転載)によると、東は生田川、西は宇治川が流れ、北は六甲山系の山波、南には西国街道と海が開けるという要害の地に花熊城はある。 城は3つの郭に分かれており、本丸、二の丸、三の丸の中核の郭を挟んで、東に侍町三丁、足軽町3丁の屋敷郭、西には花熊町と三つ城下町があった。 武家屋敷も城下町も、すべてを掘で囲まれていた。 また、西国街道筋に東から紺部村(神戸村)、ニツ茶屋村、走水村が並んでいる。 花隈城址は、現在の位置で言えば、東側は元 生田中学校(現 山の手小学校)の東の道路、西側は花隈町と下山手通8丁目との境の道路、南はJR線、北は兵庫県庁の南の筋だと推察されている。 花熊城は、天正6年(1578)の村重の謀反により、信長軍に攻められた。 この年(天正6)信長配下の滝川一益らは、花熊城を支援する一向宗寺院とその宗徒が町にいると睨んで、兵庫の町に打ち入り、僧俗・男女の区別なしに殺戮したという。 1680年には、池田信輝らの信長軍の攻撃により、ついに落城した。落城後、池田信輝がこの地の領主になり、花熊城の石材などを用いて 兵庫城 を築いた。 浄土寺山門横の「花隈城天守閣の跡」の石碑 *花隈城趾の石碑と碑文 高台の広場には、高さ約3mの円柱でよく磨いた御影石の碑が建っている。 平成7年1月17日の地震で崩壊した石碑を模造し復旧したものである。 *花隈城趾 侯爵池田宣政書 室町幕府ノ末期ハ綱紀頗ル紊レ 所謂戦国時代ニ遷リ群雄割拠シ兵馬息ム 莫シ当時摂州矢田郡花隈ノ地ハ 海陸の咽喉要衝タリシヲ以テ 大坂石山城ニ籠レル一向宗ノ門徒ノ織田信長ニ攻メラルルヤ 遙ニ援ヲ芸州ノ毛利氏ニ求ム 毛利氏粮ヲ運上スルニ当リ 先ツ之ヲ花隈城ニ貯フ 紀州雑賀ノ門徒野口与一兵衛之ヲ守ル 信長偵知シ急ニ攻メシム 城将野口戦死ス永禄十一年信長荒木摂津守村重ニ命シテ城ヲ修セシム 村重ノ弟志摩守元清之ヲ守ル 蓋シ花隈ハ伊丹ノ支城ナリ 天正七年五月村重信長ニ叛キ伊丹城ニ拠ル 信長大與之ヲ攻ム同年十二月伊丹城陥ル 信長池田信輝ニ命シ花隈ヲ攻メシム 城兵固守ス信輝父子城外ニ付塁五箇所ヲ設ケ包囲攻撃ス 翌年七月城終ニ陥ル信長此地方ヲ信輝ニ領セシムルヤ花隈城ノ旧材ヲ兵庫ニ移シテ築城シ池田城と呼ビタリ 而シテ花隈城ノ故址ハ高城ト称シ明治ノ初年迄ハ一幹ノ老松亭々トシテ聳ユルモノアリシモ廃墟空シク叢中ニ埋マレリ 只地ノ官有タルヲ以て地勢ニ劇甚ナル変化ヲ見ヌ 明治三十四年四月神戸港湾局カ表時球ノ地下工事ヲナスニ當リ地下六尺ニシテ 五輪塔ヲ発掘セリ 之レ築城以前ニ在リシ建武年間創立ニ係ル吟松庵ノ遺物ナルヘシ 昭和二年十月此所に電信ノ校舎ヲ建設スルニ際シ愈旧城タリシ證跡歴然タルモノアルヲ見ル 神戸郵便局長水野比呂文旧蹟ノ堙滅センコトヲ慨キ之ヲ地方有志ニ謀ル 偶新潟県人後藤文司之ヲ聞キ其挙ヲ賛シ工費ノ全部ヲ支出シ 茲ニ建碑シ以テ史蹟ノ不朽に伝フト云爾 会下山人福原潜撰 華 城 小島錬書 *花隈城天守閣之碑 花隈城址の西30mほどに浄土宗福徳寺がある。 山門の横に「花隈城天守閣之碑」の石碑が建てられている。 花隈城の天主(殿守)がこの付近にあったと考えられている。