
* 三宮神社は神戸大丸百貨店北向側にある。
社前に花崗岩でできた「神戸事件跡」の碑が、また、境内には当時の大砲のモデルが一基置かれている。
神戸事件が発生した付近である。

三宮神社境内の大砲
慶応4年(1868)1月3日(旧暦)、京都郊外の鳥羽・伏見で戦いが始まった。
戌辰(ぼしん)戦争の開始である。
新政府は、徳川方である尼崎藩の行動を牽制するため、備前藩に命じて西宮の警備を命じた。
このため、備前藩は、慶応4年(1868)1月1日から1月5日の間に約2,000人の部隊を出発させた。
陸路をとった家老の日置帯刀(ひきたてわき)の率いる500人の備前部隊は、既に出来上がっている「徳川道」を通過せず、西国街道を通り、1月11日、神戸の三宮神社前にさしかかった。
その時、2人の外国人が左右から行列を横断しようとした。
いわゆる供割(ともわり)という行為である。
これは、「武家諸法度」において禁止されている行いである。
先頭の備前兵が、これを制止し、迂回するよう命じたが言葉が通じなかった。
三班隊長の滝善三郎正信は、行列を横断している水兵の一人を、槍で突いて傷を負わせたことから、4国連合艦隊と臨戦体制に入ったのである。
事件の解決に、伊藤博文、陸奥宗光らが努力したが、日置帯刀は謹慎、滝善三郎正信は切腹ということで決着した。
尊皇撰夷の思想が、まだ残っている慶応4年(1868)1月の事件である。
2月9日には、滝は、新政府の命令により、事件の責任をとって、兵庫の永福寺で潔く切腹した。
外国人を殺していない事件の結末であった。
この事件を契機に、日本は尊皇擦夷から開国和親へ180度の方向転換をした。
と同時に、事件の処理過程で、明治政府が統治能力のある政権で、かつ、日本の代表政権であると諸外国に認められたのである。
近代日本の幕開けの犠牲になった滝の供養碑は、現在、兵庫大仏のある能福寺に建てられている。
なお、神社北側境内の一角の「河原霊社」には、河原兄弟が祀られている。
*境内の大砲【の説明板】
神戸事件のとき外国兵と交戦した備前の藩兵が持っていた三門の大砲と同時代のものなので、参考に据えた。
*河原太郎・次郎兄弟の塚と霊社
河原兄弟は、1184年(寿永3)源平一の谷戦の時、兄弟2人で源氏軍の先陣をきり、生田川の逆茂木(さかもぎ)を乗り越え、名乗りをあげてから矢を散々に平家陣に打ち込んだが戦死した。
合戦後、源頼朝は、後に兄弟の功に報いて子孫に生田の庄を与えたという。
兄弟の塚は、はじめ三宮神社北西200mにあったが、都市化に伴い幾度か移転し、昭和46年にやっと現在地に安置された。
なお、神戸名物「瓦せんべい」の名称は、瓦形に由来するが、河原兄弟の名をヒントに名付けられたものだという。
*徳川道
六甲山地につくられた西国街道の脇道であった。
御影から石屋川→杣谷→摩耶山裏→小部→藍那→白川→高塚山→大蔵谷の約34kmの道程である。
兵庫開港勅許を得た幕府は、居留地の外国人とのトラブルを避けるために、付替え道を修築した。
八部郡(やたべぐん)石井村庄屋谷勘兵衛が、1万9,200両で請負い、慶応3年(1867)末には完成していたが、備前藩はこの道を通らず、事件が起こった。
事件発生直後、外国兵の追撃を避けて、一部徳川道を利用して逃亡したと思われる。
政権交替の変動期にあったが、谷勘兵衛は大阪代官所から工事費用の支払いを受けた。
しかし、1月12日市中警備の長州勢に「幕府の金であるから」と強奪されたけれども、谷家は工事関係者に工事費用の支払いを続けたという。
慶応4年(1868)3月には居留地を小さく迂回する道路も設けられて、徳川道は消滅した。