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居留地のレトロな木製の電話ボックス 旧居留地について *居留地は東の神戸市役所と西の神戸大丸百貨店を結ぶ線を北端にし、海岸までの間(旧神戸村付近)に広がっていた。 居留地ができるきっかけは、幕末(安政5年〔1858〕)に井伊大老が結んだ安政の五か国条約(米・蘭・露・英・仏)による。 これにより、200年余り続いた鎖国政策が強烈な外圧によって崩れる大変革期が到来した。 居留地とは、条約関係に入った国の外国人に対し、一定の地域に限って居住・営業を許可し、自治権を認めており、日本の司法権・響察権が及ばない地域のことである。 兵庫の開港は、神奈川・長崎等に遅れること約10年の1868年1月1日(慶応3年12月7日)であった。 遅れた原因は、京都に近い兵庫の開港に朝廷が反対の立場をとり、反幕派がその動きに同調して、武力に訴えても開港を阻止する動きにでたためであった。 幕府は、この対応に苦慮し、将軍慶喜(よしのぶ)自身が朝廷に参内するなどのさまざまな努力の末、やっとの思いで、慶応3(1867)年5月24日に、兵庫開港の勅許(天皇の許可)を得た。 こうして、兵庫開港が実現したが、居留地は人家の多い兵庫をさけて、当時の寒村であった神戸村付近に設けられた。 他都市に遅れて開港したことは、神戸にとって幸いした。 先発した居留地の不備や欠点を学び、居留地づくりにヨーロッパ最新の都市計画を持ち込むことができたからである。 当時、イギリス人の建築家J.W.ハートによって設計された整然とした街づくりの面影が、京町筋付近を歩くと、あちこちに見られる。 歩道と車道に分けられた広い道路、煉瓦づくりの下水道の跡、近くに公園・遊歩道・緑地が点在すること、電灯線も地下配線であるため地上に電柱がないことなどに特色がある。 なお、雑居地として、生田川から西は宇治川まで、外国人の居住が認められた。 現在も、北野町や諏訪山付近に異人館が多く見られるのは、そのためである。 また、無条約国の中国人は居留地に住むことが認められなかったので、隣接する南京町に住むようになった。 この居留地・雑居地が日本における西洋近代文明の情報基地となり、欧米の医学・学問・科学技術・貿易・商工業などが日本に浸透していった。 しかし、居留地が存在するということは、国際社会で不平等な扱いを受けいることを意味し、マイナスのシンボルでもあった。 この不平等条約を改正することが、明治政府の大きな外交課題となり、そのために西洋風の文明開化を急ぎ、富国強兵・殖産興業による欧米に追いつくための国策が進められた。 居留地が返還されたのは明治32年(1899)であった。 今度の阪神・淡路大震災で、十五番館を初め、旧居留地も多くの被害を受けたが復旧されてきた。